セカイサプリン

Xenoblade2に関する覚え書きや個人的考察。ゼノブレイドシリーズの他の作品についてもたまに書きます。

エセルとカムナビの戦いのシーンについて

 Xenoblade3をクリアしました。
 先に全体的なまとめの感想を書こうと思っていたのですが、この二人については!と個人的に思うところがあったので、簡単ではありますがこちらを先に出しておくことに。
 二人の戦いや関係性が好きだぞ!と言う人に読んでもらえると嬉しいです。意味わからんかった……という人も、何かしら場面解釈のとっかかりになればいいなと思っています。(好きじゃないと思ったならそれはその人にとって正しい感想だと思うし、捻じ曲げたいわけでもありません)
※わずかながら物語終盤の展開に触れています。ご注意ください。


場面解説

 二人は命を連動して強力な力を発揮する火時計を持つ鉄巨神を与えられ、執政官によって強制的に「望まぬ使命」を全うさせられようとしていた。彼らはコロニー4を守るため・および(コロニーデルタの)再興のためにその任務を承諾する。
 彼ら二人が「最も果たしたい願い」は「万全の状態で互いと再び全力で戦うこと」だった。任務を承諾することで二人は「機会」、すなわち生き延びる時間を与えられた。それはひいては「因縁の好敵手と再び相まみえ、全力で死合うこと」が叶うかもしれない、という希望だったからである。
 戦いの最中、なかなか決着のつかないことに苛立った執政官オー・ピーは、カムナビの瞳に干渉することで「全力ででウロボロスと抹殺しようと動く」ように操ろうとした。(※執政官は二人に対し「手を抜いているのではないか」という疑念を持つ。これが事実だとすると、カムナビはウロボロスに対して遺恨を持たないから・エセルはウロボロスに恩義と憧れを抱いていたからだと考えられる。すなわち、「彼らが最も戦いたい相手」はウロボロスではなかったからである。「本気で死合いたいと願う相手は別にいるにも関わらず、本意でない戦いを強制させられている」のである。)

 しかしその強制的な支配を感じ取ったカムナビは、それを退けるために自ら瞳を抉り、執政官の支配から脱却する。
 これを目の当たりにしたエセルは、自分がノア一行の持つ「自由さ」に憧れを抱いていたことを思い出す。自由さとは「己の真の願い、本懐を遂げること」である。前述の通りエセルにとっての願い(本懐)は「カムナビとの再戦」であり、そしてそれはカムナビにとっても同じだったと考えられる。二人はお互いとの決着のためだけに生きてきたのである。ゆえに、命と連動して強大な力を出せる鉄巨神を与えられ再び相対した二人は、残りの命の全てをかけて戦い始めた。
 支配しようとしたはずが思惑と真逆の結果となったことに困惑した執政官は、命を削り取ることで今度こそ言いなりにさせようとするが、効果なく終わる。エセルとカムナビにとっては残りの寿命自体はすでに瑣末な問題となっており、そして宿願を叶える舞台は今そこにあったからである。その結果、執政官によって二人は命を奪い尽くされ、赤い命の粒子となって霧散する。
 ミオ達は突如戦いを始めたエセルとカムナビに最初は困惑しながらも、執政官の命の扱い方にひどく激昂した。
「エセル達が何をした!?ただ 二人は願いを遂げたかっただけなのに!」
 火時計の支配を退けた二人には自分の本懐を遂げる権利があった。にもかかわらず、執政官がもう一つの支配(本人達の寿命、残りの命の操作)によってそれを果たす前に殺してしまったこと、やはり執政官にとって二人の存在は任務遂行のための駒程度の認識であり、殺しておきながら「とんだ役立たず」「どうせこうなるだろう(エセルとカムナビではウロボロスを倒しきれず、執政官自ら戦わなくてはならなくなる、という意味)って予測してたもの」と、二人の命を人間らしい扱いをしなかったことが、ミオの怒りを爆発させた原因である。
 六人は二人の戦いに困惑し、必ずしもその使い方自体に理解は示さなかった。しかし、二人の「自由」そして「本懐を遂げたいという思い」は尊重すべきだと考えていた。ゆえに激昂し、その怒りを執政官に向けたのである。


雑感

 ざっくり感想を探してみたところ、エセルとカムナビの戦いはあまり好評ではないようだ。しかし個人的には以上のように受け取ったので、3でのイベントシーンでは1番心に突き刺さった。
 とはいえ、不評であるのにも頷ける。唐突感、カムナビの掘り下げが少ないままに登場し死亡、1周目だけでは二人の思いや真の願いが分かりにくい言い回し、単にあの場面で死合うにしてももう少し上手い見せ方や展開があったのではないか……など。
 特に、カムナビに関してはもう少し掘り下げがあってからバトルして欲しかった。コロニーを接収され、本人は(おそらくキャッスルの牢獄と思しき場所に)幽閉されている。ゆえに彼のコロニーであるコロニーデルタに訪れることは叶わず、彼を知る副官や兵士たちに会うこともできない。ここはかなり致命的である。
 エセルに関してはボレアリスのクエストやその他コロニー4の兵士たちによってある程度知ることができるので、余計に残念に思った。しかし、カムナビの宿願はあくまでエセルとの決着であり、「お主達に遺恨はないが」の台詞を踏まえると、遺恨のないウロボロス相手には無意識ながらも本気で戦い切ることが出来ず、エセルとの対峙のような高揚には遠く及ばなかったのだと考えられる。それを成立させるため、ノア達との事前接触場面をあえて用意しなかったのかもしれない。

 なお終盤でカムナビは特殊なゆりかごから再生、エセルはロストナンバーズの奪取したゆりかごから偶然外に出ることとなり、そして再び出会うこととなる。因縁こそなくなっているものの、微かに残る記憶からお互いに対して不思議な因果を感じ取る様子は見ていてとても好みだと感じた。
 正直なところを述べると、復活するならするでもっと劇的な展開が欲しかったのだが、あれ以上の要素を求めてもくどくなりすぎてしまうのかもしれない。
 また、コロニー4にエセルを連れて行くと「疲れすぎて幻覚を見ている……?」とぼやくボレアリスを見ることができる。エンディングでは堂々と一緒に並び立っているので、どうせならそこもクエストか何かで補完して欲しかった。しかし再生されたエセルは正確には彼の敬愛したエセルとは違うだろうということを考えると、ぼやきが聞ける程度で良かったような気もしてくる。

 そのようなわけで、あまり好意的に受け入れられていないものの、4話の二人の戦いは個人的には見られて良かった。
 真の自由に憧れ、それをすでに得ていたことに気づき、カムナビとともにその本懐を遂げるエセル。ただ生き延び、死なないために言いなりになるのではなく、それを振り切ってでも願いを叶えようとする姿がとても好きだと感じた。
 だからこそ、ノア達の心には強く残ったのだと思う。